みなさま、お元気でお過ごしでしょうか。私は7月3日夜、「アフガニスタン山の学校」の訪問を終え帰国いたしました。現地に向かったのは6月22日でしたが、向こうはコロナ感染ばかりか、戦闘激化や自動車爆弾などがあり、まるで戦場に向かうような気持ちでしたが、事故もなく帰国できました。現在は成田空港そばのホテルで10日間の隔離生活を強いられており、部屋から一歩も出られない生活がまだ5日間残っています。 <空からのアフガニスタン。河沿いには木々の緑が見える> 2年ぶりのアフガニスタン。滞在は12日間でしたが、濃密で充実した時間を過ごすことができました。カブールに着いて、迎えにきたヤシン校長から、山の学校が2日前から休校に入ったことを聞かされてびっくり。首都カブールではコロナ流行が蔓延し学校は一ヶ月前から休校ということで、思っていたより状況が悪いのだ知ったショックでした。先生は6人、中学の上級生3人がコロナにかかったといい、当のヤシン先生もコロナから回復したばかりとのこと。子どもたちに会えないかもしれないが、昨年、コロナ禍で公式訪問を取りやめ見ることでできていない図書室やコンピューター学習室、そして旧校舎に開設したクリニックの撮影だけは撮影しよう、授業はやっていなくてもいくつかの集落を訪れ、子どもたちに会えればいいなとパンシールに向かいました。 渓谷に入り、懐かしいパンシール川とヒンズークシの山並みを目にすると当初の緊張感はほぐれ、川辺のレストランで朝食をとる頃にはくつろいだ気持ちになっていました。同行したのはカブール在の安井浩美さん、映画撮影のために同行してくれたユスフ、そして、ヤシン先生です。みんなで揚げ魚、パラオ、カバブなどの料理を楽しみました。 <パンシール渓谷名産の揚げ魚>
そのあと、車に積んで来た「鹿、故郷に帰る」(山の学校支援の会が作成したダリ語絵本。命を大切にしたマスードの人柄を表すエピソードをもとに作られた)1200冊を山の学校に運びました。ここから地域の学校に配ってもらうためです。ちょうど、図書室に集まっていた20人近くの子どもたちと再会することができ2年ぶりの再会に嬉しくなりました。その後も数日かけて各集落を訪れ、たくさんの子どもたちと再会することができました。19歳になったマジャミンやルビナ、クリニックで医療補助をしている卒業生マリナ、バルフ大学で考古学を勉強している故サフダル校長の次男バーゼット、また7月に出したばかりの写真絵本のモデル「アクバル君」にも会うことができました(山の学校訪問の報告は11月27日の武蔵野公会堂で開催予定の報告会で行うことにします)。 <パンシール・バザラックの路地で会った少年> 学校での授業は撮れませんでしたが、河邑監督の映画撮影は進めることができました。マスードの家から見えるパンシール川とヒンズークシの山並み、マスードが植えたクルミやリンゴの木、長男アフマドとの再会とインタビュー、マスードが草原で読書していた場所への再訪、と新たな映像を収めることができました。 「首都カブールで思ったこと」 帰国のため首都カブールに戻ったものに毎日のように停電が続きました。何度かは電気が戻るのですがすぐに切れてしまいます。パンシールは水力発電で電力をほぼ自給していますが、首都への電力は北のタジキスタンから買っているものが多く、その送電線をタリバンの爆破してしまうのです。電力会社が頑張って復旧させるのですが、また爆破される。その繰り返しでした。安井さんの家は発電機があるからまだいいのですが、一般家庭は大変な思いをしているだろうと思うと胸が痛みます。人びとの生活を破壊して、政権側に圧力を加えようとする姑息な手段に怒りが湧きますし、こんな思考の勢力を権力の座につかせたら大変なことになると強く思います。 カブールでのテレビ報道では、連日、各地でタリバンの伸張を許してはならないと民兵組織が誕生、政府軍に協力したタリバンとの戦いが始まっているようです。マスードと一緒だったビスミラーが再び国防大臣に就任し、政府軍の士気も高まっていると感じました。しかし、米軍の軍事的プレゼンスを失った現在、アフガニスタンの未来がどうなるのか。それは誰もわかりませんが、ただ言えるのは、マスードも話していた「アフガニスタンのことはアフガン人が決めたい」という言葉に尽きると思います。国際社会が出来るのは、その手助けをすることだと思います。 間もなく米軍が完全撤退します。そのことに不安を覚える人も多いと思いますが、もしマスードが生きていたら、米軍の駐留を認めることは絶対になかっただろうということです。もちろん、それは敵視とは違って、アフガニスタンに介入するパキスタンやテロ組織の監視などを米国に期待していました。米国での同時多発テロ発生の前から、米国の代表部を通して「自分たちが戦っているのはテロリスト。いまその芽を摘まなければ世界は大変なことになる」と警告を発してきました。しかし、その声は届くことなく、9・11のテロに至り、マスードの命をも奪うことにもなったのです。 マスードは私のインタビューで、「戦いでは物事は解決しないということを全ての勢力が理解し、武器を置き、話し合いに就く。そして、選挙で国民の声を聞くこと。それが私にとっての最大の勝利です」と答えたことがあります。米国はそんな声や思いに応えてきただろうか。答えは「否」です。2度の大統領選挙で不正投票を行い勝利をもぎ取ったガニ氏を大統領として支持し、実際は勝利していたDr.アブドラーが不正な選挙結果を認めず、別の政府を立ち上げようとしたときも圧力をかけそれをやめさせました。不正投票の国際的な調査も行われませんでした。長く安全保障上の盟友だったパキスタンがタリバンを支援し、その国境からタリバンに加わるためアルカイダやチェチェン人が国内に入ってくるのも止めることができませんでした。この20年で、多くの人命が失われましたが、根本的な問題は解決されないまま、彼らはアフガニスタンを去ろうとしています。しかし、希望はあります。時間はかかってもマスードのような指導者が現れ、きっと平和を作り出してくれると私は信じています。何よりも国民の多くがそう望んでいるのです。 そんなことを考えながら帰国しましたが、日本では10日間のホテル待機が待ち構えていました。「部屋から一歩も出てはいけない」という監獄のような生活。刑務所で許される中庭散歩や日光浴もできない狭い空間で、窓から見える風景は実に味気のないものでした。 <空港からホテルまでのバスと東横インからの風景> 嘆いていてもしょうがないので、「マスード写真集」のための作業に集中しました。デザイナーの鈴木さんが送ってくれた表紙のクロス(生地)見本を見て、色の最終決定をし、カブールで話してもらったアフマドの内容を序文原稿にし、校閲を頼んでいる人びとから集まった修正箇所を整理し、英文やキャプションなどの確認などをして時間が過ぎました。それがひと段落した4日目。ガクンときました。旅の疲れが出たのか、それとも隔離生活で人と会うことも外の風景を見ることもできない生活が影響したのか。まるで血の通わないロボットになったような気分です。単純で画一的な日々。朝7時には館内放送で「これから配膳しますので、その間は扉を開けないように」とアナウンスがあり、30分後に「どうぞ、食事をお取りください」のアナンウンス後に扉のノブにつけられたプラスチック袋をとる。朝も夜も三食、似たような味気ない弁当。中は卵焼きもどきの揚げ物、乾いたスパゲティ、冷めて脂肪が浮いた焼肉、甘味料と着色料たっぷりの煮豆や漬物。感染を防ぐため弁当も使い捨てフォーク、スプーン、ナイフもビニールで包まれ、一階のローソンで買い物を頼んでもそのお金の受け渡しも一回ごとに新しいジップロックの袋とプラスチック製品のオンパレードに気分が滅入ります。 が、こんなことで落ち込んではいられません。まもなく「マスード写真集」の最終山場を迎えるのです。体調を整えるため、毎日、運動を続けています。ホテルの部屋は最長で歩数9歩。そこを歩いたり小走りしたり、時には洗面所にも入ったりのUターンも交えて歩数5千歩が目標です。あとはYoutubeでのストレッチ体操を20分しています。室内をシロクマのように歩き回りながら、思い出すのはアフガニスタンでの日々、そして、出会った人々の温かい表情です。その現地滞在と無味乾燥なホテル生活。この違いは何なのだろうと自問しています。コロナ感染阻止という点では、この隔離生活は完全かもしれませんが、人が生きる上での大切なものを壊していることは間違いありません。それが日本で全国レベルで起きていると思うと気持ちが重くなりますが、それを抜け出すのも各々の力と努力だと思います。 ここを出たら、すぐに写真集の校正が始まります。そして、7月末には印刷です。そのあとは、製本、予約者への配送と忙しい日々とが始まります。この監禁生活はやってくる繁忙期への準備期間と割り切って残りの5日間を過ごすことにします。「今までにない、最高のマスード写真集」を作るために。 成田の東横イン・プリズンで 7月9日 長倉洋海 カブール。帰国前のPCR検査 行政長官アブドラーのオフィスの中庭。 ペルシャ薔薇が芳醇な香りを放っていた。