アフガニスタン報告「アハマッドとの再会」

 3月末から4月にかけて、マスードの故郷パンシール渓谷にある「山の学校」を訪問してきた。恒例の訪問ですが、今回は、マスードの政治的後継者である行政長官(首相に当たる)Dr.アブドラー、そして、マスードの遺児である長男のアハマッドに会うことができました。マスードがテロで倒れた当時、11歳だったアハマッドもすでに30歳。風貌は父マスードを彷彿とさせるものだった。



1983年 村人との席で談笑するマスード

 英国で政治学を勉強していたアハマッドが今年からカブールに拠点を移し、マスード財団の代表として、若い世代にマスードのことを伝えていくつもりのようだ。私にもざまざまな協力をお願いしたいというので喜んで引き受ける。それは長くマスードを見続けてきた責任のようなものかもしれないと思った。

 彼との話で印象的だったのは、彼が見たという夢の話だ。アハマッドは私に父の夢を見るかと尋ねてきた。彼自身は「一か月前に父親の夢を見た」と言う。そして、「その夢の中で、父親が『お前が人々をまとめ上げ、この国を再建しろ』と話し、私が『できない』と答えると、『いや、できる』と言って消えた」と言う話だった。


マスード財団が支援している戦争孤児院「希望の家」で子供たちと

 マスードは亡くなる一年前に自分の家を建てたが、そこで家族と暮らしたのは一年に満たない。その家を一緒に訪れると、玄関先にはアハマッドの小さな運動靴やサッカーボールがそのまま置かれていた。二階への階段の踊り場には、マスードが好きだったパンシール川を描いた油絵が掛けられていた。書斎に入ると、机には大きな地球儀が置かれ、その奥の書架の一番、目立つところに、写真集「地を這うように」が表紙が見えるように置かれていた。父がそうしたのだと聞いて胸が熱くなった。マスードは私の写真集や本を子どもたちにも見せ、その時の状況などを話すこともあったという。

 かってマスードが案内してくれた寝室から見たパンシールの光景が忘れられず、寝室に入ろうとすると鍵がかかっていた。鍵穴や壁に紙テープが貼られていて、アハマッドがの母親が「許可なく立ち入るべからず。掃除や補修のためでも入室禁止」と書いてあるという。「大切なものを守りたい」という彼女の切ない気持ちが伝わってきた。

寝室からのパンシール渓谷。マスードが愛して止まなかった故郷の風景だ。

滞在中には、パンシール川の上流部にも行った。37年前のソ連軍との激闘が蘇るようなシーンがまだ残っている。マスードたちの懸命の抵抗がソ連軍の撤退につながった証でもあるが、同時にたくさんに人々が亡くなった墓標のようにも見えた。


 戦禍は姿をとどめていたが、人々はかっての平和な生活を取り戻し、生活も少しづつですが向上している。下のバザールで買い物を済ませ、山道をロバに乗って家路に就く4歳半くらいの男の子。話しかけても外人が怖いのかなかなか笑顔にならなかったが、差し出したチョコレートを受け取ってくれたが、表情は硬いまま。それでも10メートルくらい行くと、それを口に入れているのを見て、ホッとした。

 そして、山の学校。子供たちは私との再会を楽しみに待ち望んでいた。皆、「オマール、オマール」と私の名を呼ぶ。かってマスードや戦士たちからも、同じように声を掛けられた頃のことを思い出す。時が移り、マスードの息子や戦士たちの子供たちが国や地域を背負うようになった。二世代に渡り、見続けてこられたことに「不思議な縁」のようなものを感じた。




小児性糖尿病となり学校も休みがちだったバシーラだが、毎日、自分で注射を打ちながら病と闘っている。今日は体調が悪く学校を休んだが、夕方には妹のナジーラと山から戻ってくる羊や山羊を家畜小屋に入れる。


お昼で授業が終わり、家に帰る四年生。制服の青いシャツもネクタイも今年の成績優秀者へのご褒美。もらえた子ももらえなかった子も肩を組んで仲良く山の村に帰っていく。


マスード廟のあるサリチャから渓谷を見渡す

アハマッドとマスードの家の裏山を登った