一昨日、雪国の取材から戻りました。新潟、秋田、青森を二週間かけて旅してきました。本来なら一月に地球で最も寒いシベリアのサハ共和国に撮影に行こうと思っていたのですが、−50度から60度になると聞いて、カメラや移動(車がエンコすると中で凍死してしまう)のことが心配になり、3月の−30〜40度のあたりで妥協することにしました。そのリハーサルとしての意味合いもあって、雪と闘う北国の人を撮りたいと向かったのでした。私は「晴れ男」のため、行く先々でその日だけピタリと雪がやんだり、溶けてなくなっていたりと「せっかく雪を撮りに来たのに」とガッカリすることの連続でした。それでも、何とか雪を捉えることができました。

 なぜ、いま寒いところを目指すのか。それはいままで紛争地を中心に南の地域を取材することが多かったからです。地球にはさまざまな環境、そして景色がある。そこに生活する人がいる。いままで紛争地を取材する中で、そこに生きている人間に焦点を当てて写真を撮ってきました。戦争が一枚の写真で写らない以上、人間を通して「戦争を伝えたい」と思ったからです。人間を撮り始めると、「一体、人間って何だろう」という疑問がわいてきました。便利さを求め、地球を痛みつける人間、戦争を止めようとしない人間、人間にさまざまな人がいて考えがある。それを捉えきれるのかという思いでもあります。多様な人間であっても、空気と水を供給する地球や自然がなければ生きて行けない。地球や自然と人が関わる、いや、関わってきた姿を見つめることで、はじめて、「人の姿や有り様」が見えてくるのではないか。そんな気持ちから、いままで見たことのないような場所、初めて見る生活を撮ってみたいと思うようになりました。

 北国取材から戻ってする、アフガン在の友人から「アミンが亡くなった」という知らせが入りました。「えっ、どのアミン?まさかハロン・アミンじゃなだろうな」とメールを読み始めると、なんとハロン・アミンでした。46歳、米国の病院で胃ガンで亡くなったというのです。昨年6月、私が山の学校の訪問を終えカブールに戻ったとき、わざわざ米国在の仲間を二人つれて会いにきてくれ、アフガン再建のために働きたい」と熱く話してくれました。アミンは20代のとき、亡命先の米国からマスードを訪ね、ともに戦うことを決意しました。得意分野である外交を生かして、米国で広報活動を展開。国連大使や駐日アフガン大使も勤めました。日本でも私にアフガニスタン再建の思いを何度も語ってくれました。私の『マスードの戦い』をアフガニスタンで出版したいと奔走してもくれました。アミンがマスードのもとを訪れた時に、私がいて、マスードとの記念写真を撮ったはずだから、それが欲しい」とも言われ、何度も探したのですが見つからず渡せないままでした。

 2011年からガンと闘っており、家族には知らせていなかった。今年、余命がないことを宣言され、初めて家族をドバイから呼んで話したとも友人から聞きました。その聡明さと外交能力で、ニューズウイーク誌に「これからの未来を担う77人」にも選ばれたアミン。アフガニスタン再建のために必要な人材だったし、何より、彼自身が夢を果たせなかったのは悔しくてならないだろうと思うと、涙があふれました。
共通の友人モスリムからは「私たちの本当の友であり兄弟でもあるアミンを失って大きなショックを受けている。彼が天国に導かれますように。人間は死んでも、友達同志でいることができる」とメールが来ました。数年前には、かつてマスードの秘書を務め、内務副大臣となっていたダウトも指導者と将来を嘱望されていましたが、39歳の若さで爆弾テロで亡くなりました。本当に本当に悔しくてなりません。
「生きるって何だろう。人間って、何なのか」。そんな思いが頭の中を巡ります。だからこそ、これからも写真を撮っていくしかないと強く思っています。

「人生でうれしいことが二つあった。一つはマスードと出会えたこと。二つ目は大使として日本に滞在できたこと」と話していたというアミン。
彼の冥福を心から祈ります。

2015年2月17日 長倉洋海