3月8日、シベリアのネネツ遊牧民を撮影する旅から戻りました。
ネネツはシベリア北西部、北極圏に突き出たヤマル半島をトナカイを飼いながら移動する民です。極寒の地で彼らはどんな生活をしているのか、いつか写真に撮りたいと思っていました。3年前に知り合ったサハ共和国の友人ミーシャ(芸術監督)が旅に同行してくれました。

<ミーシャが帰りの空港で、携帯を使ってブックデザインを作ってくれた>

 モスクワからサレハード、ナジィムと飛んで、そこからスノーモービルで目的のキャンプへ。現地の温度はマイナス15〜25度。サハで経験した40度よりだいぶ楽だな思っていたら、早速、移動中の寒風で鼻の先を凍傷にやられてしまいました。みんなが笑うくらいの軽いものですが、油断大敵。徹底的に鼻を防護することに努めました。それと夜の寒さには驚きました。トナカイの皮で覆われたテントの中は、暖かいだろうと思っていたら、寝るときには火を止めてしまうのです。下は雪の上に板をしいたけで、しんしんと寒さが上がって来ます。トナカイの二重のロングブーツを履かせてもらい、さらにトナカイ革のコート布団をかけてもらい、やっと寝ることができました。

<股まであるトナカイ皮のロングブーツを履いたまま眠る>

 冬場は比較的ゆったりと移動するといいますが、それでも、30本の柱でできたチュム(テント)を解体し、ソリに積んで移動し、また作るのはかなりの力仕事です。夏場には1日ごとに移動すると聞いてその大変さを思いました。しかし、テントの中には机と、その引き出しに入った食器とバターや紅茶などの食材だけで、あとのコートも衣類は全て表のソリに積んでいて、それを毎日、出し入れするのです。平均9台のソリがあり、それがタンスや物入れなのです。

<トナカイ120頭の毛皮を使った移動用テントの前で、4歳半のダーニャ>

 トナカイの移動の撮影が楽ではありませんでした。カメラを出しっぱなしにしているとすぐに冷え切り、私の息がファインダーにかかってそれも凍り、画面が見えなくなります。電池の能力が低下して、オートフォーカスも効かなくなるので、マニュアルに切り替えるのですが、それでもレンズの回転がスムーズに動きません。素晴らしい被写体がありながら上手く撮れないのがもどかしく感じられました。

<トナカイは50センチの雪を掘り、コケを食べる>

<ソリに使うトナカイをロープで捕獲するボアデック>

<トナカイを捕まえたアレキサンドラと息子のラディアン>

<屠ったトナカイを食べる。最初に心臓、トナカイの体に溜まった血を飲む。溜まった血に塩を入れ、切り取った肉を浸して食べる。トナカイが器だ>

 ネネツの生活のトナカイとともにある。彼らの食料を求めて移動し、次には大きくなったトナカイを食べる。皮はコートやブーツ、テントの生地になる。肉は人間が食べ、骨は犬が食べる。そんな生活をするネネツは、家族を一番、大切なものと考えている。男がトナカイを放牧し、女たちが皮をなめす。男が木を切り出し、今度は女たちが薪にする。家族の協力なしにはこの風土の中で生きていけない。トナカイに対しても家族のように抱きしめ、頬ずりする。その表情から愛おしが伝わってきた。


 シベリアの天候は厳しい。晴れた日があってもすぐに雪やブリザードになる。降雪のたびに、テントの雪を払わなければならない。時間を見つけたら、ソリ作りやテントの柱作りに余念がない。

<夜のテント。雪が積もっている>

私が泊めていただいたエドワルドとバレンティーナの家族もあと一週間で移動する。冬は比較的、のんびりしているが春がやってくると休む時間も満足に食事している時間もないという。溶けた雪が凍り、トナカイが餌を探しにくくなるからだ。それと、生まれてきたトナカイが鷹やカラスに目玉を突つかれないように、一日のほとんどをトナカイの側で過ごすという。
ネネツの人口は4万人程度。全員がロシア式の寄宿舎教育を11年受けるという。中には医師や弁護士、映画監督になった人もいるが、彼らの民族と伝統を思う気持ちは衰えることはない。家にはコンピューターがあるし、ゲーム機もある。電波は入りにくいが携帯もある。新しいものをたくみに取り入れながら、「伝統的な生活」を捨てることはない。
ネネツ遊牧民を訪れる旅。それは「世界は広く、美しく、そして深い」ということを再び、感じさせてくれるものだった。

2019年3月15日 長倉洋海


<新しい設営地で、まず最初に床の板とストーブを置いた>

<テントができ流のを待つ子どもたち>

<家族でナジィムのトナカイ祭りに出かけるセルゲイ一家>