私がポーランデの小学校を訪れたのは2002年の6月。住民が自力でつくった学校であること、また男女共学であることに驚きました。子どもたちは、窓ガラスも扉もない教室で、地面に座ったり石に腰掛けたりして勉強していましたが、真剣に学ぶ姿に心を打たれました。
翌年の2003年9月、1年前の写真を持って再訪すると、窓枠とガラスのない窓から、脱穀のもみ殻が風で舞い込み、放課後には牛や羊が教室に入り込み、脱糞をしたり室内を荒らすという状況でした。寒い日には、窓と入り口から寒風が吹き込み、子どもたちは震えながら授業を受けているのです。日本を出る時、子どもたちの為に使ってくださいと二人の方からお金を預かっていたので、窓枠とガラス、ドア、机と椅子を注文し、取りつけることができました。
思えばこのポーランデは、アフガニスタン抵抗運動の指導者マスードの統一戦線作りの旅に同行した時、宿泊と食事をお世話になったところです。今は亡きマスードも、この美しい村々を愛していました。しかし、ソ連軍との戦いがもっとも熾烈だったところで、地域の人々は多大な犠牲を強いられました。遠隔地のため、20 年たった今でも中央からの復興と教育支援の手が届きにくい地域でもあります。 黒板を見上げ、懸命に勉強する子どもたち。中には2時間も山路を歩いてくる子もいます。いつもは家の手伝いで農作業や羊の世話に追われている子どもたちにとって、学校は友と出会い、好奇心を育み、生活に刺激を与えてくれ、将来の夢を育てる大切な場所です。
しかし、教師の給料が3か月遅延し、教師たちはこのままでは授業をボイコットするしかないと話しています。子どもたちの教材もほとんどありません。兄弟が3人いれば教科書は1冊だけ、ノートや鉛筆も不足していますし、地図や実験道具などの教材はありません。ユニセフから届いたビニール製の通学カバンがあるくらいです。この子たちが勉強を続けるために何か支援ができないだろうかと考えたのが、今回のプロジェクトの出発点でした。 また、小学校支援と併せ、この春建設予定の中学校への支援も考えています。地域に中学校がないため、今まで女の子は 6 年で就学をあきらめざるを得ませんでした。パンシールの中心にある中学校までは徒歩で 2 時間。ここに中学ができれば、女の子も通わせることができると地元の人は言います。
学校の運営は教師や住民が中心となり、私たちは財政面での援助をして彼らを支えたいと思います。それが、パンシールの子どもたちに希望を与え、なおかつささやかなアフガニスタン復興支援にもなるのではないかと考えます。
1年に一度、現地に足を運ぶ予定です。皆さまのご協力をお願いいたします。