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MESSAGE

長倉洋海よりアフガニスタン情勢に関するメッセージ 2024.8.15

 パリ・オリンピックが終了、過激派によるテロ事件が起こらず良かったと思う。テレビの録画で開会式の選手団入場を見たが、先頭はオリンピック発祥の地ギリシャ、それに続いて入場したのが難民選手団だった。どの国よりも真っ先に、国を追われた選手たちが入場するシーンに胸が熱くなった。この中に、アフガニスタンの選手はいるのだろうかと思いながら入場シーンに見入った。

 大会15日目の8月9日、ブレイキン競技に登場したアフガン難民の女性選手が試合終盤、上着を脱いで、「アフガン女性に自由を」と文字が貼り付けられたケープを披露し、踊り続けた。彼女の名はタラシュ(ダンサー・ネーム)、アフガニスタン初の女性ブレイキン・ダンサーだったが、母国では踊り続けられないとパキスタンに脱出、そこからスペインに逃れた。観客席から拍手と声援が送られたが、五輪で禁止されている「政治的スローガンを掲げた」という理由で、彼女は試合後に「失格」となった。しかし、彼女が訴えたのは「政治」ではなく、尊厳と自由を求める叫びだった。それを「政治」と断じ、禁止・追放するなら国民の声を聞こうとしないタリバンとどう違うのだろうか。

 アフガン国内では、教育と仕事の現場から締め出された女性たちがいまも抗議の声を上げ続けている。暴力で押さえつけられても、投獄の危険があっても女性たちは諦めない。難民のタラシュさんはそうした現実を少しでも国際社会に知って欲しいと、失格ばかりかタリバンからの報復を覚悟でアピールしたかったのだろう。国内で闘う同胞たちに、何かをしなければならないという思いだったに違いない。

アフガンメッセ
<Xより>
<国内の抗議デモで、
口にテープを貼った女性。
黒はタリバンを象徴する色でもある。
Xより>
<Xに投稿された
米国ワシントンでの反タリバン、
反ジェンダーアパルトヘイト・デモへの
呼びかけチラシ>

 オリンピックの精神は争いをやめスポーツで競うこと。故に「平和の祭典」と称される。違和感を覚えたのは、柔道競技でイスラエル選手が畳に上がり、会場では応援のイスラエル国旗が振られていたとき。イスラエルは国家として参加を認められているのだと気付いた。ウクライナへの侵攻と攻撃を続けているロシア連邦が国家としての参加を認められていないことは納得できる。それに対し、これは明らかなダブル・スタンダード(二重基準)ではないかと思えてならなかった。
大会中、ガザの小学校が2度も爆撃され、100人以上の犠牲者を出している。そのことへの追悼の言葉も、ガザで数千のパレスチナ人が拘束され非人道的扱いを受けている(8月7日読売新聞)ことへの抗議もない。これもまた「政治的なことを持ち出さない」ということなのだろうか。

 他にもオリンピックの最中に行われていることがある。中国がかつて併合したウイグル(現在の新疆ウイグル自治区)では100万人以上が再教育キャンプという名の強制収容所に送りこまれている。その中国が堂々と参加できるのは、主催国フランスや欧米諸国、そしてオリンピック参加国もそれを認めている、ということになるのだろうか。「平和」を掲げるオリンピックを、日本は、スポーツの祭典、世界的祭典としてだけ捉え、メダル数やそのドラマ性にばかり目を向けていたように思う。

 世界中から集まった観客、そして多くのメディア。誰もアフガニスタンに触れない中で、タラシュだけが声をあげた。アフガニスタンで彼女のことをSNSやスマホで見た人々はどんな気持ちになったのだろうか。現状の変革を望む人たちには大きな励み、そして勇気をもらえたのではないだろうか。私がそうであったように。タラシュがいつかアフガニスタンで自由に踊る日がくることを願うばかりだ。

2024年8月15日  長倉洋海

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